
釣川は吉留(よしどめ)の山中(さんちゅう)から流(なが)れでて、途中(とちゅう)いくつかの小(ちい)さな川といっしょになりながら、まっすぐ玄界灘(げんかいなだ)に注(そそ)いでいます。源流(げんりゅう)から河口(かこう)まで約16km、途中(とちゅう)多(おお)くの田畑(たはた)を潤(うるお)し、飲(の)み水(みず)ともなり、宗像の人々にとって「命(いのち)の源(みなもと)」ともいえる川です。
江戸時代(えどじだい)の中(なか)ごろにかかれたと思(おも)われる古地図には、今(いま)とは違(ちが)う釣川の流(なが)れがえがかれています。
「釣川の河口(かこう)に江口の湊(みなと)があって船(ふね)がたくさんつながれていたが、元禄期(げんろくき)ごろ(17世紀(せいき)終(お)わり)から河口はだんだん砂で埋(う)まりはじめ、湊には船が入(はい)れなくなった」と江戸時代の本に書(か)かれています。
河口が砂で埋まりはじめると、川の水がすみやかに海(うみ)へ流れ出ないので、釣川の中流(ちゅうりゅう)にある河東(かとう)や稲元(いなもと)などの村々は、雨(あめ)が降(ふ)ると川の水が田んぼにあふれ、「ビキが小便(しょうべん)しても稲元は浸(つ)かる」と言(い)われるほどでした。田んぼが水びたしになると、稲(いね)がくさって農民(のうみん)は大変(たいへん)困(こま)ります。梅雨(つゆ)や台風(たいふう)の季節(きせつ)に毎年(まいとし)のように繰(く)り返(かえ)される水害の記録(きろく)が庄屋(しょうや)の日記(にっき)に残(のこ)されています。
「なんとか水害をなくして米(こめ)がたくさんとれるようにしたい」という農民の願(ねが)いを真剣(しんけん)に考える人がいました。1745年(延享(えんきょう)2年)、宗像郡代(ぐんだい)となった大森善左衛門(おおもりぜんざえもん)は、宗像のあちこちをまわり、村の様子(ようす)をしらべて「釣川はゆるやかに流れているから、河口の水はけを良(よ)くすれば、河東や稲元の水害も減(へ)らせるだろう」と考(かんが)えました。

釣川大改修の様子
(宗像市民俗資料館(みんぞくしりょうかん)、権田伊勢次郎 画)

新・旧の釣川(みず色の部分が、
宝暦(ほうれき)3年以前の川筋(かわすじ))
善左衛門は、河口近くで直角(ちょっかく)に曲(ま)がった釣川の川筋(かわすじ)をまっすぐに改修して、水がすみやかに海へと流れるようにしたのです。
小山のようにつもった海岸(かいがん)の砂丘(さきゅう)をけずり、新(あたら)しい河口を海に開(ひら)くのは大変な工事(こうじ)でした。農閑期(のうかんき)になると、村々から農民があつめられ、みんな休(やす)む暇(ひま)もなく働(はたら)きました。
「工事が完成(かんせい)すれば、きっと水害もなくなり、米もたくさんとれる」と、農民の胸(むね)のなかには黄金色(こがねいろ)に輝(かがや)く田(た)んぼの風景(ふうけい)が浮(う)かんでいたでしょう。
260年もむかしのことで、工事用(よう)の機械(きかい)もコンクリートもなく、掘(ほ)る道具(どうぐ)といえばクワやスキ、運ぶ道具はモッコですから大変な労力(ろうりょく)で、完成までに8年近くかかりました。
1753年(宝暦(ほうれき)3年)、まっすぐ海に開く河口から釣川の水が勢(いきお)いよく玄界灘へと流れこんでいきました。善左衛門は人々のために役立(やくだ)つ工事をいくつもしましたが、そのなかでも釣川の改修は最(もっと)も重要(じゅうよう)な、後(のち)の時代まで残(のこ)る大(おお)きな事業(じぎょう)でした。古文書(こもんじょ)には善左衛門が村々のためにつくしたので「村の風俗(ふうぞく)が改(あらた)まった」とも書(か)かれています。このあと善左衛門は努力(どりょく)が認(みと)められ、勘定奉行(かんじょうぶぎょう)に取(と)り立(た)てられました。
その後、40年ほど過(す)ぎた1791年(寛政(かんせい)3年)、時(とき)の宗像郡奉行(ぐんぶぎょう)冨永軍次郎(とみながぐんじろう)が釣川の川底(かわぞこ)浚(さら)えをし、赤間(あかま)の辻田橋(つじたばし)から波打際(なみうちぎわ)までの川幅(かわはば)と距離(きょり)を定め、1番から10番まで定石(じょうせき)をおきました。定石は花崗岩(かこうがん)で作られた1辺(ぺん)が15cmほどの角柱で、定石番号(ばんごう)・場所(ばしょ)・川幅・つぎの定石までの距離が刻(きざ)まれていました。

現在(げんざい)、江口の家並(いえなみ)の間(あいだ)から福岡県立(ふくおかけんりつ)少年(しょうねん)自然(しぜん)の家(いえ)「玄海(げんかい)の家」に向(む)かう道(みち)の左右(さゆう)に田(た)や畑(はたけ)、ホテイアオイの繁(しげ)る池(いけ)が帯状(おびじょう)につらなって見(み)えますが、これが昔(むかし)の釣川が流れた跡(あと)です。
ここでは、昔の人の困難(こんなん)に負(ま)けない強(つよ)い姿(すがた)と努力(どりょく)のあとを今も見ることができます。



