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宗形一族と宗像大社

古代、宗像地方を支配したのは海人族(あまぞく)である宗像氏であり、氏の長は「宗形君(むなかたのきみ)」でした。「宗形君」は豪族(ごうぞく)であり今の宗像一円から遠賀、鞍手、糟屋方面まで勢力を持ち、宗像三女神をお祀りする神官という立場と郡司(ぐんじ)を兼ねていました。
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| 当時、大和朝廷にとって宗像は重要な場所であり、宗像大社は古代より朝廷から特別な存在として扱われてきたんじゃよ。 |
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皇室と宗像一族

大和朝廷と宗像氏、宗像大社の関係が深かったことを示す歴史的な事実があります。
壬申の乱(じんしんのらん)(672年)で活躍した高市皇子(たけちのみこ)は、大海人皇子(おおあまのみこ)と尼子娘(あまこのいらつめ)との間に生まれた子供であり、尼子娘(あまこのいらつめ)こそは宗形君徳善(むなかたのきみとくぜん)の娘です。
歴史の上でさまざまな中央の政権活動と宗像氏と宗像大社は深く関わっていたのです。
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ワンポイントアドバイスじゃ!
教科書に出てくる「長屋王の変」で知られた長屋王(ながやおう)は、実は高市皇子(たけちのみこ)の子息であり、宗形君徳善の子孫にあたるんじゃよ。 |
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| もう!頼りないわね!「長屋王の変」とは、729年(天平1年)2月に藤原氏に対抗する勢力をなしていた長屋王が,呪詛(じゅそ)を行い国家を傾けようとはかったとの密告により、聖武天皇(しょうむてんのう)の命によって屋敷を兵に囲まれ妻子と自殺した事件のことよ! |
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そうだね。
この背景には藤原氏一族の勢力保持のため長屋王を除く藤原氏の陰謀があったものとも考えられているんだよ。
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| この変の半年後には藤原不比等(ふじわらのふひと)の三女、藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)が皇后となり、皇族以外から皇后が選ばれるという異例の事態が出現するとともに、藤原武智麻呂(ふじわらのあそみむちまろ)以下の藤原4兄弟がともに昇進(しょうしん)して天平初期の政界を主導(しゅどう)することになったんじゃ。 |
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さいごに

玄界灘のほぼ中央に位置する周囲わずか約4キロメートルの絶海の孤島”沖ノ島”は、さまざまな歴史的できごとに大きく関わってきました。「海の正倉院」と称されるように、数々の国宝指定の御神宝は日本と大陸をつなぐ要所として位置づけられていたことを証明しています。
これから世界へ向けて動き出す沖ノ島の重要性を再認識するプロジェクトと共に、宗像の歴史の重要性をきざむ島”沖ノ島”をシリーズでクローズアップしてまいります。
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| この後もシリーズで紹介していきます。楽しみにしていてくだされ!デハ |
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